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美しい建築にひとは集まる

  • 執筆者の写真: 聖 難波
    聖 難波
  • 8月25日
  • 読了時間: 5分

著者:伊東豊雄

建築家として、でなく、私というひとりの人間として、何が可能か。建築家としての自信が他者といかに違うかを意識するのではなく、一人の個人がほかの人といかに同じでありうるかを感じながら、建築を考えることができるのか、確かめたい気持ちでいっぱいです。

なんとつまらないと思われるかもしれませんが、「もっと優しくなれ、優しい目線で建築を考えよう」と思います。それは、弱い立場でものを考えるということではなく、むしろもっと、自分が強くありたいという気持ちです。


P18

建築で言えば、機能的であるとか、便利であるとか、そういう尺度で建築の良し悪しが判断される。被災地には、そんな尺度で生きていない人がいっぱいいる。この人たちは、箱のような、団地のような、モダニズム建築の災害公営住宅を与えられても、全然うれしくないだろうと思いました。


P19 近代以前と現代が結びつく接点

一方で、僕らはモダンな生活というのを、全面的に受けれて暮らしています。じゃあ、日本人の美しいものってなんですか?と聞かれると、誰も今の生活が一番美しいとは思っていない現実があります。日常ではない、もっと別のところに日本の美しいものがあって、それはたいてい過去のものです。桂離宮は美しいというけれど、それと今の自分の暮らしとは関係がない。

食べ物だと、洋菓子だけじゃなくて、和菓子だって素晴らしいとか、寿司もそうですがどんなにモダンなものに覆われていても、昔も今も、ますます寿司はうまいもんだってことになっている。でも建築は、過去の美しいものが、食べ物のように現在にはつながっていないわけです。

伝統的な木造の日本家屋に暮らす人はごく一部の限られた人で、多くの人はせいぜい旅館で温泉に入っていいよねと言っているぐらいです。そういう二重の暮らしを矛盾なく受け入れている限りにおいて、日本の将来の建築に限界はあると思うし、本当の意味で、日本の建築はすごいとか、新しいと言える状況ではないと思います。


P20

もう一回、歴史とか地域制とか、そういうことをゼロから考え直していくことで、ひとつのものに結びつけられないか。つまり、近代以前の思想と、現代技術を使う建築とが一つになりうる接点を見つけること。そのことが、ありていにいえば、僕が目指そうとしている建築ということになります。


P31

だから自分の建築よりも、他社の建築を見に行ったときに、これは頭で考えた建築だろうとか、身体から発してる建築だろうというのは、すぐに感じてしまう。頭でつくった建築には、まったく興味が湧きません。写真を見ただけではわからないし、文章を読んでもわからない。見に行って初めて、これは面白いって思うんです。

それはたぶん、建築は本来、身体に深くかかわっているからなんだと思います。


P74

組織設計事務所は不思議な存在で、クライアントの言うことを聞いているようで、一方では建築家の集団でもあるので、自己主張があるようなないような、本質が見えてこない。そういう組織が特に大都市の建築デザインの大半を担っているから、日本は建築家のイメージが曖昧になっています。


P75 美しい建築に人はあつまる

いま、どんな建築をつくりたいか。

ひとことで言えと言われれば、美しい建築をつくりたい。それにつきます。

いつからか、建築が美しいとか、あれば美しい建築だというようなことを、人はあまり言わなくなった。コンセプトという言葉で、建築を語るようになった。それは、都市の理屈で建築を考えいているからではないかと思います。

僕自身、建築を考えることは、都市を考えることだと教えられてきたし、そう思ってきました。東日本大震災のとき津波で流された町に行って初めて、都市ではないところに住んでいる人たちと出会って、都市ではない町の可能性から建築を考えるようになりました。


P92

これからの建築は、人と自然と建築の関係をもう一回どう組みなおすか。再編するか。そこにかかっている思ってます。

いまはもう、近代以前に戻ることはできない。では、近代主義の時代を超えた先に、自然との関係を回復した建築はどのように可能であろうかと考えたときに、僕は、「内なる自然」ということをテーマにしています。

中沢新一さんのエッセイ集「雪片曲線論」のかなの「建築のエチカ」という、チベットで密教寺院を建てるときの文章がヒントになっています。それはチベットの土地に寺院をつくるときに、自然に囲まれたチベット人々ですら、自然のシステムそのものでは建築をつくることはできなくて、幾何学を用いる。そして、幾何学を用いてつくった建築であるにもかかわらず、内部に入ると、そこには自然が蘇っている、というのがこのエッセイの核になっています。

それは外部の自然とは違うけれども、五感にアピールしてくるもう一つの自然。これを中沢さんは、母体の内部にいるようだという表現を使っています。その内部の自然とはどのようなものなのかが、ずっと気にかかっています。

つまり、どこにでもある自然とは違って、人の手を加えてつくられたもうひとつの自然ならば、現代のわれわれも考えられるんじゃないかと思います。例えば畠山直哉さんが自然の写真を撮った時に、そこに表現された自然は、彼の内部にある精神が生み出した自然であるように。

同じことを建築でもできないか。抽象化されているからこそ、多くの人が共感してくれるような空間をつくることができると思うのです。


P96

五感に訴えかえる美しい空間をつくることができたら、おのずと人は集まってくる。ひとりよがりに終わることなく、個を超えられるか。共感を呼べるかどうかが勝負どころで、人々からなんでこれが?と言われてしまったらおしまいです。そのためにはいかに自分が、頭で考えるのではなく、体のなかから、腹の底から建築をつくれるか、だと思います。


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